万像自在記「子ども会の目指すものとは何だろう」

″子やらい″

          子ども会の目指すものとは何だろう

  日本の伝統的な地域社会には,寄り合い.青年団活動など,それぞれの地域の特性を考慮した社会教育があったことは承知の通りです。冠婚葬祭や相互扶助そして話し合い・・・,また,地域によって「子育て」を「子やらい」と呼ぶ習慣があると聞きました。「子やらい」とは「子どもを前にやり,あとから押してやる」という意味で,子どもの自立性や主体性を大切に,子どもの自立心を養うことに重点がおかれていたようです。
  日本の教育の原点は,生活力(生き抜くための倫理観と知恵と技能)の習得ため,個性を尊重した自立心の養成にあったように思われます。競争心を煽ったり,画一的に一方的に机上の知識を正論のごとく教え,時間に拘束され,年齢に拘束され,何か分からないエリートと目指し,・・・・・ 。
「教育の転換期」それは,親の願い・子供の願いによって教育が保障されること。子育てを家庭が隣近所が子どもの教育を受ける権利を保障し,地域に子育ての義務化すること。
地域の中でこどもたちが生き生きと生活し,生活の知恵を学び合い,自分自身を作っていくことのできる,心の触れ合いのある地域社会をつくり直さなけらばならないことを意味しているのでしょう。
親は,地域は,子どもの地域で教育を受ける権利(環境)を守り,作りそして,後押ししてあげる義務があるのでしょう。
まさに,″子やらい″の地域教育(学習)環境を,今,地域子ども会が大きい声で「子どもの手による子ども会」の唱え,実践し,後継者を育て,社会啓蒙をしなければならない時なのでしょう。
  子どもは子どもであって,子どもらしく生活し,子どもらしく考え,子どもらしく悩み,子どもらしく解決し,子どもとして人間らしく生きているのでしょう。早く大人になることもなく,大人のように上手に・・・ができなくとも,子どもは子どもらしく生活する権利と義務があるのでしょう。子どもの義務とは笑顔を見せてくれることと,心豊かな大人へ成長して行くことでしょう。
 「太陽の入る家に医者いらず」の格言を借りるならば,「笑顔の子どもの居る地域に教育者いらず」とも言えましょう。
「教育」という言葉が「学習」という言葉に変わりつつある今日,子ども会が唱える「支援」という言葉の意味は大きいと言えるでしょう。